目次
はじめに ― 言語とは何か
言語は1つの宇宙
なぜ伝統的に文法重視なのか
文法を知っていても使えない
文法少々プラス使う練習がベスト
流暢に使いこなすための「自動化」の達成方法
はじめに ― 言語とは何か
外国語を勉強する際、その方法についてはさまざまな議論がありますが、伝統的には文法重視の教授法・勉強法が王道のように扱われて来ました。
たとえば知性の宣教師のような佐藤優氏は外国語は畢竟「文法と単語」で成り立っているなどと主張されています。本当にそうでしょうか?
まず考えていただきたいのは、「言語とは何か」ということです。外国語ではなく、母語の日本語でまず考えていただきたいのですが、いつ日本語を使っていますか?
身近な人とのコミュニケーション、仕事上のやり取り、SNSでのやり取りなどの双方向コミュニケーションばかりでなく、日々さまざまなものを読んだり聞いたりという一方向コミュニケーション(受信)や自分のためだけに書くメモや日記、あるいはまた考え事をする時など当たり前のように日本語を使っているはずです。つまり、言語と認知・思考およびそれによる行動は切っても切り離せないものなわけです。
言語は1つの宇宙
私は言語とは1つの宇宙だと考えています。時間的な広がり(歴史)と空間的な広がり(地域)と社会階層的な広がりを備えた宇宙。感情というエーテルが満たされた空間。
どんな言語にも歴史があります。書物として残されているものは限られていますが、地名・河川名などに残されていたり、神話や伝説などが口承で伝えられてきている場合もあります。その中には現代語の文法・語彙では説明できないものも少なくありません。けれども格言や慣用句として古い形のまま現代に生き残っていることもあります。
また、どんな言語にも空間的な広がりがあります。話される地域が多いほど変異形が多くなります。俗に方言と呼ばれますが、英語と米語やヨーロッパのスペイン語と南米のスペイン語のように国境をまたいでいることもあります。
社会階層的な広がりと申しましたが、一般に理解される社会階層の違いによる言葉遣いの違いばかりでなく、専門用語や業界用語や若者言葉など、特定のグループに独特な言語バリエーションもここに含まれます。TPOの違いによる言葉遣いの違いもこの次元に含めてよいと思います。
このように言語を捉えたとき、あなたは母語を100%マスターしていると自信を持って言えますか?
普通は言えないはずです。古文が得意な方もいるかと思いますが、私は現代語訳されていないものは読めません。
自分が属していない分野の専門用語や業界用語を知りませんよね。2・3聞きかじることはあるかもしれませんが、「知ってる」と言えることはないと思います。
敬語はどうでしょうか?丁寧語・尊敬語・謙譲語を完璧に使いこなせると言い切れる方がどれだけいらっしゃるでしょうか?
方言はいかがですか?自分が生まれ育った地域または住んだことのある地域の言葉は知っているし、使えると言えるかもしれませんが、縁のない地域の方言はまず知りませんよね。
単語はいかがでしょうか?地域差や時代の差もさることながら、そこに載ってる感情・イメージもだいぶ違いますよね。そうしたイメージは社会全体で共有されていることも稀にありますが、通常は特定のグループ内のみで共有されるか、個人的なものです。
こうしたことはいかなる言語にも当てはまります。
私たちは母語ですら「習いきる」ということができません。外国語であればなおさらです。
なぜ伝統的に文法重視なのか
そもそも「文法」とは何でしょうか?
改めて聞かれると困る方が多いことでしょう。「名詞」「形容詞」「動詞」「副詞」などの品詞の分類や「~活用」や「~用法」や「~構文」などの単語のつながり方に関する規則などを思い浮かべられる方はかなり語学学習に慣れた方だと思います。
定義は学説によって多少の違いはありますが、「言語の体系またはモデル」というのが一番大雑把なものだと思います。ここでは、ある言語の文を成り立たせている「規則の集合体」というふうに理解して話を進めます。
母語の基本的な文法は、生まれたときから大量のインプットに基づき、自分でトライ・アンド・エラーを繰り返しながら習得します。これは混然とした無意識の能力のため、いきなり説明を求められても答えられるものではありません。日本語ネイティブだからと言って「体言」「用言」「な変活用」などといった文法用語を知っているわけでも、説明できるわけでもないですよね?
そして、重要なことですが、そういった文法用語やその内容を知らなくても日本語を(概ね)正しく使っているということです。
文法というのは、こうした渾然一体の無意識化された規則・規範を分析・解明し、体系化したものです。つまり、分析的知識の集合なわけですが、基本的なものはともかく、そうでない周辺的現象などに関しては分析・解釈の仕方に学者・学派によって違いが出てくることがあります。それの意味することは何かと言うと、すべての言語現象が「文法」という形で説明できるわけではないということです。
けれども、言語の自然習得ができる臨界年齢(およそ7歳)を超えてしまってから外国語を学ぶ場合、ある程度まとまったルールブックのようなものが必要となります。それが「文法書」なわけですね。
外国語の文法というのはいわば一番目に見える外国語の部分で、教えやすくテストしやすいという側面があります。つまり、外国語習得度を測る尺度として便利なのです。これが伝統的に文法が外国語授業・学習において重視されてきた理由です。
文法を知っていても使えない
文法を知っていること、変化形や構文などを知っていることとそれらを使いこなすことはまったく別次元の別問題です。
いくら変化形や構文の知識を問う穴埋め問題や選択問題ができて、テストでいい点を取ったとしても、それは知識であって能力ではないのです。穴埋め問題の練習をすれば、そういう類の穴埋め問題ができるようになるだけです。
一般に、言語の形式や規則に関する知識が言語能力に「移行」されることはありません。
それは、たとえばサッカーやラグビーなどのスポーツのルールを知っているからといってそのスポーツができるわけではないのと一緒です。音楽理論に造詣が深いとか、楽譜が読めたとしても、楽器を演奏したり歌ったりできるわけではないのと同様です。
知識はあくまでも知識であって、能力ではないのです。
文法少々プラス使う練習がベスト
もし教養として外国語を学ぶとか、あるいは辞書を片手に文献を読めるようになるため、あるいはまた言語の構造を比較するために外国語を(複数)学ぶなどの目的であれば、文法重視の教授・学習方法でも構いませんし、理に適っているとも言えます。
ですが、外国語を学ぶ目的が、その言語を使って仕事をすることであるなど、使えるようになることが主眼である場合、文法重視は害にしかなりません。それはいわば、歩き方を急に意識して脚がもつれてしまうようなものです。
だからといって文法を軽視してよいわけではありません。分量の調整された文法学習と実際の使用の練習が結びついて初めてポジティブな学習効果があると、さまざまな外国語習得研究で確認されています。
文法の知識をしっかりと持っていることは、必ずしも言語を使いこなせることに必要ではありません。アプローチの仕方は個人個人違っていて当然と言えますが、実際に使う際には大抵の文法規則が無意識で「自動化」されていないと、流暢に使いこなしているとは言えません。
流暢に使いこなすための「自動化」の達成方法
規則・用法の「自動化」を達成するには、月並みですが、反復練習しかありません。
最初はたどたどしく、つっかえてばかりでも、ひたすら使い続けることで「明示的な知識」から「習慣化された能力」に変えられます。
ただ、反復練習とはいっても、言語はやはりスポーツや楽器とは違うので、機械的な単純反復はさほどお勧めできません。一番の理由は退屈だからです。
言語を使うことは、知覚・認識し、思考し、その考えを表現するということですから、そうした言語の多様性・多層性は「機械的」練習とは相性が悪く、そのような練習では「言語(要素)」として脳に記憶されない可能性があります。
ベストな方法は、バリエーションを利かした反復練習で、1つの文法事項(単語も)に対して、自分の考えや感情や生活環境と関連付けさせた例文をいくつも作って話す・書くことです。自分との関連性と思考の表現であることが、「言語(要素)」として脳に記憶させる大きなポイントとなります。
このような反復練習は小さなものの積み上げアプローチだと言えます。当然ですが、それだけでは言語習得には足りません。
積み上げと同時に大量のインプットを「降り積もらせる」ことも重要です。すべてを細かく理解する必要はまったくありません。とにかく少しでも多く原語を聴く・読むことでマクロ的に感覚をつかみ、「慣れる」ことが大事なのです。そして、聴いたり読んだりした中から1つ2つをピックアップして、上述のような積み上げアプローチを行っていくとなお効果的です。
こうして積み上げてきたものが、まとまって流入してくるもの(ネイティブの長めの発言やニュースやスピーチなど)の7・8割くらいをカバーするようになったとき、「使いこなしている」といえるB2(~C1)レベルになっていることでしょう。
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