フェルディナント・フォン・シーラッハの「Tabu 禁忌」は短編集ではなく、長編小説なのですが、人物描写や話運びは他の短編を膨張させたような印象を受けます。
主人公の Sebastian von Eschburg の生い立ちが詳細に描写されます。文字のひとつひとつに色を感じる共感覚を持っていること、父親の自殺直後にその死体を見てしまったことや、寄宿学校で少年時代を過ごしたこと、母親の新しい恋人と相性が悪かったことなど。寄宿学校卒業後に実家には居つかずに写真家になるためにベルリンへ行き、写真家として成功を収めたものの、幼少期の体験がじわじわと精神を蝕んでいきます。
そんなある日、若い女性の誘拐・殺人容疑で逮捕されてしまいます。
捜査官に拷問の脅しをかけられて殺人を自供してしまいますが、死体は見つからないまま、敏腕弁護士ビーグラーが彼の弁護のために法廷に立ちます。
ゼバスティアン・フォン・エッシュブルクはビーグラーになかなか真相を明かさないため、殺人が真実なのかどうかさえ謎のまま話が進行します。
表現方法として目を引いたのは主人公の呼び方です。子ども時代はずっと Sebastian として描写されるのに対して、成人して写真家として活動するようになると Eschburg として描写されるのです。
邦訳でもそれに倣って「セバスティアンは。。。」「エッシュブルクは。。。」としたのかどうかは読んでないので分かりませんが、この切り替えは興味深いと思いました。
Wirklichkeit(現実)と Wahrheit(真実)は別物。
Schuld(罪)とは何かという問いかけ。
これらが全編を貫く2本の糸のようで、見え隠れしながら控えめに光を放っている。
この小説はすごく長いというわけではないのですが(257ページ)、事件に辿り着くまでにかなりのページ数が費やされるため、結構根気が必要だと思います。
また、描写対象がいきなり Eschburg から検察官の Lindau 女史、さらに弁護士の Biegler に切り替わるので、誘拐・殺人容疑で逮捕されたのが Eschburg であることがすぐには分からなかったり、Biegler の保養先の描写が長々と続くので、この弁護士はいったいいつどのように Eschburg とかかわりを持つようになるのだろうか?とじれったくなったりで、ストーリー構成にもう少し改善の余地があるのではないかと思わなくもないです。
実話に基づいているらしいのですが、押しつけがましいモラルの主張はなく、淡々と、しかし深い問いかけがじわじわとボディーブローのように効いてくる全体として味わい深い作品です。
2・3日予定がぽっかりと空いていたら、手に取ってじっくりと読んでみてはいかがでしょうか。
邦訳はこちら。